ひとり陰湿

最期

例えば今日が人類最期の日、ということがわかったらどうするだろうかと考える。これは前から自分の中では決まっていて、いつも通り過ごすということである。家族と一緒にご飯を食べて、その辺を散歩して、おやすみ、と言って同じ布団に入り、眠ると同時に滅亡してくれるのがベストである。特別なことをしようとしても、うまくいくわけないので、なるべく静かに過ごしたほうがいいのだ。でも現実的に、世界が終わるとなったら、みんなパニックになって、静かに過ごすなんて不可能である。頭の狂った奴に殺されてしまうかも知れない。でもそれ以前に、本当に世界が終わるとしても、事前には誰も教えてくれないだろう。

では別のパターンとして自分が、病気かなにかで数ヵ月後に死ぬ、となったらどうするだろうか。この場合は、何かを書き記すだろう。日記だか絵だか小説だか漫画だかはわからないけど、睡眠時間をギリギリまで削って書きまくるだろう。どうしてかというと、死が直前まで迫ったら、何か面白いことが書けるんじゃないかと思うからである。もちろん怖くて泣いてるだけで、何もできない可能性もある。でも、自分の死が宣告された時に、自分がどうなっちゃうのかは興味はある。もちろん死にたいわけではないけれど。

という具合に、くだらない妄想を2つあげたけど、同じ最期についてなのに、取ろうとする行動はまるで違っている。なぜだろうと考えてみると単純で、結局のところ見てくれる人がいるかどうかの違いである。いくら何かを書いてもみんな死んじゃうなら意味がないということだ。

でも例えばこれが芸術家だったらどうなんだろう、と考えてみると、誰も見なくても作品を作るだろうと思う。絵描きは絵を書くだろうし、小説家は文章を書くだろうし、映画監督はパントマイムで映画を撮るかもしれない。とにかく、何がなんでも表現せずにはいられないのが芸術家なんだと思う。

この結論にたどり着いたとき、自分が思う以上に、自分は書いたものを人に見てもらいたいと求めているんじゃないかと感じた。別に芸術家を気取っていたわけではけれど、今までは書くこと自体が娯楽であって、人に見てもらうのは二次的な喜びだった。でも実は逆で、初めから読み手を意識して書いている。

もちろんそんなのは他人から見ても、自分の中でも、どうでもいい話だ。自分も他人も楽しければそれが一番ハッピーなのだから。

(2009年1月07日更新)

by 太田ルイージ

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