
透明は何色
昨年の暮れ近くに、家族と旅行へ行った。海の近くの宿だったので、窓からはよく海が見えた。朝方、なぜか一人になり、することもないのでじっと波を見ていた。よく波は同じ形のものはないから見ていても飽きない、と言うけれど、だからと言ってずっと見ていて楽しいものでもない。なにか本でも持ってくればよかった後悔しながら、外を眺めていた。
こういうときによくやるのが、風景の色を見つけていくゲームだ。例えば、”山”とひとくくりに言えば緑、とか紅葉なら赤、となるが、細かいところを見ると、光の当たり方や前後関係で、様々な色が存在することに気づく。余程暇な時にしかやらないが、そういうゲームをするには波というテーマはとてもやりごたえがある。
やがて、とても不思議な色の存在に気づいた。透明という色だ。もちろん透明というのだから色なんてあるはずはない。でも青い波の中には確かに透明の部分が存在する。もし本当に色がないのなら、その存在には気づかない。つまり透明という色は存在するのだ。
なぜ、透明の存在に気づけるのかという疑問には、すぐに答えを出すことができた。ただ自問自答をしているうちに、透明という存在は、表現という部分において、すごく重要なことのような気がした。自分たちが表すもの、絵でも、音楽でも、人柄でも、見えない部分の重要性、というのはこういうことのような気がした。つまり言いたいのは、インスピレーションだとか霊感だとか才能だとか、そういうものに、つい誤魔化されてしまうけれど、人と一線を画していくには、見えないものの正体を割と地道に暴いていくことなんじゃないかな、ということ。
(2009年2月14日更新)
by 太田ルイージ