ひとり陰湿

死んでもいい

初めて小説を最後まで書き上げ、さらにそれを人に見せたのは高校2年の時だ。なぜ書いたかというと、そのとき読んでいた遠藤周作の随筆の中で、ドストエフスキーの「悪霊」のあるシーンが紹介されていて、頭を殴られたような衝撃を受けたからである。少年がジミヘンのギターの音を聞いてロックに目覚めるのと同じだ。とにかく1つの話を書きあげなければいけないし、それを誰かに見せなければいけないと思った。

3日くらいかけてノートに書き上げ、何の前触れもなく一人の友人に「ちょっと小説書いてみた。読んでみて」と渡した。あまりに唐突な行為だったのだが、友人も大して驚くわけでもなく、次の授業の間に読んでくれた。この友人なら読むだろう、とあまり考えずに渡したのだが、その判断は正解だった。読んだ後に延々と欠点や間違いを言われるのだが、それが的確かつ絶妙で、言われたこちらも、じゃあ次もっとすごいの書くから待ってろ!と言えるのである。その友人が太田にもっと書かせようと思って、わざと批判的な感想を言ったのかは不明だが、その友人は自分にとってのプロデューサーだった。

それから1年ちょっとの期間で、8本くらい書いた。どれも短く、似たような話ばかりであったが、毎回書き上げるとまずその友人に見せ、その度に感想や批判を受けた。読む友人が少し増え、教師にも読ませたが、その慣習は変わらなかった。自分が楽しくて書くのはもちろんだったが、なんとかその友人をうならせてやろう、と思っている部分もあった。

その時は小説を書くことが楽しくて仕方がなかった。いつも書き上げるのは真夜中で、書き終わったらそのままベッドにもぐりこむ。ベッドはひんやりとしているし、しかも神経も高ぶっていてなかなか寝付けない。体が温まるのを待ちながら、これをあいつに読ませたら、どういうことを言うのだろうか、とぼんやり考える。徐々に眠気に襲われいつの間にか眠ってしまう。

この時このまま死んでもいいと本気で思っていた。書き上げたことに満足で、うれしくて仕方がないのだ。書いているときの緊張から解放されて、頭の中も空っぽで、気持ちも最高にリラックスしている。もしこのまま朝になって目が覚めなくても、なんの未練もない、と思った。

今考えても、その時は本当に死ぬ瞬間としては最高だったんだと思える。もちろん、今死にたいとか、長生きしたくないとかそういうわけではない。ただもうこの先、ここまで「死んでもいい」と思える瞬間は二度とやってこないのである。もちろん今でもこの場でこうやって文章を発表できるし、それを好意的に読んでくれる人もいる。更新した後は、これ読んだらどう思うかな、とわくわくもする。でもあの頃と決定的に違うのは、どんなにうまく作品ができても、自分の中のものを全て出し尽くした、とは思えないことである。何もかもが途中経過のように感じるし、実際にそうなのだ。前向きに考えれば、もっといいものを作るチャンスと言えるのだろうけど、正直言って、何も満足できないまま死んでいくの嫌だ。

だから残っている選択肢といえば、とにかく長生きして、どこまであの瞬間に近づけるかに挑戦しつづけることくらいなのである。その時自分がどうなっているかは知らないけど。

この話にはオマケがあります
(2010年2月06日更新)

by 太田ルイージ

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