
国語の授業の目的
学生時代、小中高問わず、国語の時間はよく授業を聞かずに、教科書の違うところを読んでいた。授業を聞かないといっても、隠れて弁当を食ったり、漫画を読んだりするわけではないので、バレる事はまずないし「予習していたんです!」と言い張れば切り抜けられないこともない。誰でも一度くらいはやったことがあると思う。
教科書の巻末の方の長めの小説を読むときの感じはけっこう好きだった。初めてめくるページは、まだきれいでつるつるしていて、誰にも踏まれていない雪を連想させる。そういうことを一種の背徳を感じて行うんだから、面白くないわけがない。
実際高校になると、夏目漱石とか太宰治なんかが出ていたりするので読み応えもかなり出てくる。「こころ」や「女生徒」を読んだときは、その描写やテーマにかなり衝撃を受けたし、宮本輝の「蛍川」を読んだときなんかは、ラストのあまりの鮮やかさに、思わず息を飲んだ。
その感動に突き動かされて「蛍川」は実際に文庫本を買ったのだが、話の長さが違うのでびっくりしたのを覚えている。教科書に載っていたのは、かなりの部分をカットしたバージョンだったのだ。おかげで読んでいて余分な部分が多いと思ってしまった。あまりこういうのは良くないことなんでしょうね。
だから、もし子どもにもっと本を読ませるべきだ、と思うならなるべく授業がつまらなくて、教育熱心でない国語教師の授業を受けさせるのがいいと思う。面白い授業をやってしまっては、生徒も夢中になってしまうので読まなくなるし、生徒が授業を聞いていなくても気にしない寛容さ、というかやる気のなさが必要なのだ。ただ、あまりにそういうのが出すぎると、漫画やエロ本読まれたり、エアガンで背中を撃たれたりしてしまうので、怒ると本当に怖い、というイメージを持ってもらわなければならない。
というわけで、教育委員会ははそういう教師を育てた方がいいのである。それとも今はあまり活字読め、とは言わないのだろうか。まあどっちでもいい話だ。
by 太田ルイージ
310妻
2010/02/19 00:15すごい!あたしも同じ事してた☆ チッ 自分だけかと思ってたのに…www