
足音
帰り道彼女と手をつないで歩いた。時期は春と夏の中間で、夜の闇には湿気が含まれていて、少し蒸し暑い。前日は雨で肌寒かった。時刻は夜の11時過ぎで、2人で飲んだ帰りで、彼女を家に送っていく途中だった。
ぼくはその時21歳で、彼女のことが好きだった。彼女はぼくのひとつ歳上で、自動車販売の営業をしている彼氏がいた。ぼくらはただの飲み友達で、手をつなぐのは初めてだった。酔ったふりをして、なんとなく手をとった。店を出る前から、つないでやろうとか狙っていたわけではない。彼女は、いきなりどうしたの?と驚いたが、ぼくがいいじゃん、と言うと、無理に振りほどこうとはしなかった。
ぼくと彼女は1年くらい前から、大体月に1回のペースで飲みに行っている。バイト先で知り合って、何度かシフトが一緒になって働くうちに、彼女の方から一緒に飲みに行かないかと誘ってきた。てっきりもっと大勢で飲みに行くのかと思ったら、誘われたのは自分だけだった。男の飲み友達を新規開拓したかったらしい。
彼女の手は特に冷たくも温かくもなかった。ぼくは手に結構汗をかいていて、なんとなく気まずかった。彼女にそれを指摘されたら嫌だな、とぼんやり考えていた。彼女はぼくと手をつないだことを、恋人に報告するのだろうか。彼女の恋人は、飛行機の滑走路並みに心が広いらしく、ぼくらがこうして会っていることも知っている。彼が一体何をしたら浮気と呼ぶのかはわからないが、男と2人で飲むのを黙認するんだから、手を繋ぐくらいオプションのサービスに含まれてもいいはずだ。
ぼくらは国道の2メートルくらい脇を並走する、人通りの少ない道を歩いていた。反対側には、住宅が立ち並び、思い出したようにたまに自動販売機だとか、花屋だとか、酒屋だとかが建っている。頼りなげな街灯に照らされながら、あと20分も歩けば彼女の家につく。駅からまっすぐ歩けばもっと早くつくのだが、大体いつも遠回りして、だらだらおしゃべりしながら帰ってくる。今はちょうどうらぶれた美容院の前を通りかかったところで、入り口の脇にはにはソフトボールくらいの大きさのサボテンが置いてあった。さっきから話すこともないので「サボテンの中って結構水が入ってるんだぜ」と言ってみたが「そう」とひと言で済まされてしまった。
なぜかわからないけど、手をつないだ瞬間から調子が狂ってしまった。言葉がうまく出てこない。つなぐ前までは特に意識することなく話ができたし、それに対する彼女の反応もいちいち気にならなかった。多分何も話していなくても気にならなかったはずだ。1年前、2人で一緒に飲むようになると、ぼくらはお互いが、すごくリラックスしていることに気づいた。むしろ逆に普段の生活が、いかにリラックスしていないかに気づいたくらいだ。
だが、こうして手をつないでいる今は違う。頭には次はいつ飲みに行くかとか、明日また雨だってねとか、最近は海外行くのも大変になっちゃたよな、テロってなんで起きるんだろうね、とか話すことはいくらでもあったが、全てが場違いな気がした。それはきっと距離の問題なのだ。今日はいつもより近くにいるのだから、それに見合った話をしなければならない。きっと、本屋の冠婚葬祭コーナーそういう作法の本があるはずだ。「相手と5メートル以上離れているなら、愛車のキーを落とした、等の自分の不幸話はOKですが、1メートル以内では失礼に当たります」という具合に。生ぬるい風がつないだ手や顔にあたり、冷たくて気持ちがよかった。ぼくは額にも汗をかいていた。これはまるで恋してるみたいだな、と他人事のように思った。そのことを冗談ぽく彼女に伝えようと思ったが、やめておいた。
2メートル離れて並走する国道は、たまに車が通過する。それがトラックだったりすると、声が聞こえなくなるほどうるさいが、そうでなければ、聞こえるのは道路脇の草むらにいる虫の音と、自分たちの足音くらいだ。こういう気まずい空気のときは、普段より足音が大きく聞こえる。規則正しく左右交互に発せられる音は、工場の流れ作業を連想させた。もしぼくが歩くことをやめても、この作業は止まらないのかもしれない。
そんな風に永久運動について考えながら自分の足音を聞いているうちに、奇妙なことに気づいた。同じように聞こえなければいけない彼女の足音が聞こえないのだ。彼女が何を履いているかはわからなかったが、ヒールとかソールが地面に当たったり、こすりつけられる音が聞こえてもいいはずだ。意識を耳に集中し、彼女の足音を聞き分けようとしたが、やはり自分の音しか聞こえない。
そのまますぐに足元を見て、原因を探ってみても良かったが、ぼくはおもしろがって「もしかして死んでない?」と聞いてみた。すぐに「いきなり何?」と返ってきたが、だいたいぼくはいつも突拍子もないことを言い出すし、お互いそれなりにアルコールが回っていたので、彼女もそこまでは驚かなかった。ぼくは、さっきから自分の足音しか聞こえないから、自分と手をつないでる人が、実は既にこの世に存在しないんじゃないかと思ったことを、説明した。
彼女はしばらく足音に耳を傾けた。目はまっすぐ前を見たまま、何かを考えているように見えた。彼女は少し柄の入ったブラウスの上に薄いピンクのカーディガンを羽織っていた。グレーのレギンスを履いていて、春を表すのに無難な格好をしていた。どちらかと言えば目立つ格好ではない。デートの時はもっとアクセサリーなどを身につけて、もっと華やかになるんだろう。
やがて彼女は口を開き、こうは考えられないかしら?と言った。
「実は、既に死んでしまっているのはあなたの方なの。でもあなたはそのことには気づいていない。1年位前、初めてあなたと2人で飲みに行って、私を家に送って駅に戻る途中、国道を走っていた大型トレーラーがハンドル操作を誤って脱輪してこっちの道に横転してきて、あなたはつぶされちゃったの。運転手は居眠りしてたんだって。労働環境が最悪でここ3日はほとんど寝てないらしくて、奥さんがいて、子どもが3人いていちばん上の子は小学校6年生で、さあこれからお金がかかるぞ、て彼は張り切って働いていたのね。会社のほうも経営は厳しいくて少しでも儲けを出さなきゃだから、彼にどんどん負荷をかけたのね。3日寝ないなんてそれほど珍しい話じゃないけど、この辺りはずっと道がまっすぐでしょ?ついつい睡魔に襲われちゃったのね。運転手は横転した車内に閉じ込められて、レスキュー隊が呼ばれた。左足がちょうど、つぶれたダッシュボードに挟まれちゃってて、救出作業は難航して、助け出せても、これはきっと足を切断しなきゃだな、て感じだったけど、意外とうまくいって切断せずにすんだの。あーこれなら大丈夫、ていう感じで、救急車に乗せられて見送られ、みんな、とりあえず良かったね、てほっとしたの。でも、その間もあなたはずっと車の下敷きになったままなの。誰もあなたの存在に気づかない。さて、それじゃあ車どかすか、てなって、クレーン車で持ち上げてみたら、ぺしゃんこになったあなたがいたの。クレーン車の運転手も警察の人も野次馬も、みんな腰を抜かしそうになった。だってまさかこんなところで人がつぶされるなんて思いもしないもの。警察の人はあわてて救急車をもう一台呼んだけど、誰が見ても手遅れなのは明らかだった。場所はちょうどさっき通った美容院の前。あの入り口にあったサボテンはね、あなたが生きている最後に見た光景なの。あなたはサボテンを見ながら、あれ踏んじゃうと大変なんだよな、トゲを1本1本とらなきゃだから、前踏んだときは大変だったな・・・なんて考えているうちに、降ってきたトレーラーにつぶされたの」
つまらない冗談だった。「俺そういう話苦手なんだよ」と笑い飛ばそうとしたが、そのちょうどその瞬間にトラックが悲鳴のような音をたてて通りすぎたため、タイミングを失ってしまった。つないだ手が湿っている。自分の汗のような気がしたが、彼女の汗のような気もした。彼女も汗をかいているのだろうか。
「カエルみたいにぺちゃんこになった、かわいそうなあなた。あまりに唐突だったから、あなたは自分が死んだことすら自覚できないの。あなたは1年もの間、ずっと同じところにとどまっている。過去も未来もない。宙ぶらりんなの。あなたにできるのは、わたしがこの道を通る度に、わたしと寄り添うという行為だけなの。くり返しくり返し、それしかできない」
砂利の駐車場の脇に差し掛かった。無断で車が入り込まないよう、道路に面して、チェーンが張ってある。古臭くて、錆が浮いていて、握ると手が鉄臭くなりそうなチェーンだ。子どもの頃に乗ったブランコを連想させる。ぼくは空いている右手で、そのチェーンをつかんだ。イメージした通り、チェーン同士が擦れ合う音がする。音を確認すると、ぼくはすぐに手を離した。ぼくは思ったほど酔ってはいない。
なぜ彼女が今日に限って饒舌に、しかもこんな話をするのかはわからなかった。彼女も今日の距離感を気まずく感じていて、いきなりこんな話を始めてしまったのかもしれない。気のせいか、彼女はさっきよりも強い力で手を握っていた。つながった手がさっきより重みを増したみたいで、湿った空気を切り裂いているような感じがする。足音は相変わらず1つしか聞こえない。マンホールの上に乗ると、蓋がずれて、大きな音がした。蒸し暑い。さっきから風が吹いていない。
「あなたはこの状況をどうにか脱出したいという想いから、勇気を出してわたしの手を握ったの。それは、あなたの助けられたいという意思表示なの。気づいているよね?あなたはこのままではいけないの。もし、あなたがこの手を離さでいるのなら、助けてあげてもいいよ」
勇気という言葉にぎくりとした。彼女の方を向くと、彼女は前を向いたままだった。街灯に照らされた顔のこちら側半分は青白く光っている。表情はない。
彼女は歩き方も、生き方も、居酒屋のお通しの箸の付け方にも、自分のスタイルを持つ、または持とうとするタイプだった。冗談はあまり言わないけど、よく笑うし、話を聞くのがうまかった。ぼくが悪乗りしてくだらない冗談を言うと、はいはい、と流すのがお決まりのパターンで、たまに「おもしろい人ね」とほめてくれれた。彼女は都内の美大に通っていて、教職をとっていて、来月からは教育実習をすることにが決まっていて、大学を卒業した後は、どこかの中学で、美術の教師になるつもりだった。迷いは一切ない。迷いとか妥協とか、自己嫌悪とかそういうのとは無縁の女だった。ぼくの方は目的意識も将来の展望も働く意欲もなく、ぱっとしない地元の大学へ通い、楽しみと言えば、数少ない友人と飲みに行くか、家で本を読んだりゲームをすることだった。ただ消耗されるだけの生活。だから、ぼくから見た彼女はきれい事のかたまりのように見えた。自分の暗部を恐れ、それを他人に見られることをもっと恐れ、それから逃れたくて将来の予定とか目標を、可能な限りぎっしりと詰め込む。ぼくは彼女という人間を一方的に決めつけ、見下していた。だから、万が一ぼくらが付き合ったとしても、絶対にうまくいくはずがなかった。これ以上親密になれば、彼女はぼくを軽蔑するだろう。それが彼女を口説かない理由だった。彼女は、飛行機の滑走路並みの思考回路の男が似合っている。
じゃあさ、とぼくは言った。
「確認してみようよ。せーので足元を見て音を合わせてみて、俺の足がちゃんとあるかをさ。もし俺の足がちゃんとあったら、もうこの話はおしまいにしよう。でも・・・万が一にだぜ?俺の足がなかったら、俺のことを助けてほしい。助けてくれるんでしょ?」
「あなたが本気で助かりたいと、わたしにすがるならね」
ぼくは、わかった、と言った。そこまで言われると、本当に自分が死んでるような気がしてきた。だとしたら彼女にすがらなければならない。本気で助けを乞わなければならない。でも、それはそうすべき正しい行為なのだろうか。でも、もう後戻りはできない。時間もない。ぼくが彼女の手を取ったときから、何かが決定的に変わってしまった。風が吹いてぼくの顔に当たり、どういうわけか少し緊張が解けた。ぼくは自分の体を支える両足の感覚を確認した。じゃあいくよ、と言うと、彼女がさえぎった。
「ちょっと待ってよ。もし、わたしの足音が消えていたら、わたしの足がなかった場合はどうするの?あなたは、わたしのことを助けてくれるの?」
by 太田ルイージ
コメント
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しの
2010/05/05 14:01そして誰もいなくなった